言葉は論理的思考の必須条件ではない

 

 

子供の言語知識が、比較的よく知られているデータであるとすれば,あまり知られていないものが、子供が新しい言表を、獲得するときの心的メカニズムです。このことは、いくつかの問いを投げかけさせます。すなわち、(1)思考的発達と言語的発達の間には、依存関係があるのでしょうか。(2)言葉と思考は、発達の各段階で、同じ関係を保ち続けるのであろうか。そうだとすれば、発達の各段階を示す特殊な一つの文法が無くてはならない。(3)言葉は思考の発達にとり、「必要欠くべからざる」条件なのであろうか。いずれの問いにおいても、我々は、発達の2つの軸を前にしている。つまり、言語的発達と知能的発達がそれであり、前者は、言語の範囲内で、言説の組織によってなされる問いかけに我々を赴かせ、後者は、言葉取得のメカニズムの問題、および言語利用の問題を、言説の範囲内で生じさせる。

 

 ピアジュの概念は、発生論的、認識論的展望の中に位置づけられている。このスイスの心理学者にとり、言語記号は、シンボル機能の一様相にすぎない。言語機能の外に、子供は別の記号表現体形を必要とし、それがシンボルである。ピアジュは、シンボルを、区別され動機付けられた、個人的記号表現として定義しており、それは、主体の親密な関心に関わっている。このシンボルは、シンボル遊び、延滞模倣、心像、モノマネとして、様々な子供の活動の中に見いだされる。ところで、「シンボル遊びは、言葉と殆同時に哀れ荒れるが、しかし、それは言葉とは無関係であり、個人の表象として、また、同じく個人的である表象の図式化として、思考の中で重要な役割を演じるのである。」ねたふりをするようなシンボル遊びの中で、子供は、日常的場面でなされる自分の活動を呼び起こすような一連の態度をとる。子供が、活動の身振りを行うのに応じて、ここに表象が合わられるのであり、この表象は、まさに言葉と無関係である。延滞模倣や心像においても、事情は同じである。いずれの場合にも、我々はシンボルに立ち会うのである。「われわれは言葉よりも広範囲なシンボルの機能の存在を認めることができ、それは、言語記号体系を超えて、厳密な意味でのシンボル体形を包み込むものである、従って、思考の期限は、シンボル機能において求めるべきでだと考えられる」シンボル機能は、表象の形式によって説明されうる。したがって、シンボル機能は、記号表現と記号内容とを区別する。「ところで、言葉はシンボル機能の特殊な形に過ぎず、個人のシンボルは、たしかに集団の記号よりも単純であるのだから、次のように結論することができる。すなわち、思考は言葉に先立ち、言葉は、寄り入年な図式化と、より動的な抽象化によって、思考が均衡形態に達するのを助けつつ、思考を深く変化されるにとどまるのである」。

 

ジュネーブ大学の心理学者達による、言葉と思考の関係についての研究への貢献は、早くから初められた。子供の言葉についての初期の研究の一つにおいて、ピアジュは、思考の2つの様式に関わりを持つ言葉の2つの形、自己中心的な言葉と社会的言葉を決定している。なおまた、言葉の習得と思考の発達に関する研究において、ズワルトは、具体的思考のレベルに対応する言語的解体系を分析し、次のように結論した。「統辞的構造は、ピアジュにより記述された論理的構造と同形性を示すであろう。そして、言葉の習得は、継起する段階における活発な構造化により、現在の堅固な図式になるであろう。」

 

フェレロは子供の言葉における時間関係を研究することにより、ズワルトが得たのとほぼ同じ結論に達している。様々な論文が、認知的発達と無関係に言葉の習得に関する問題に手を付けることは、困難であることを示している。

 

だが、いかなる方法で、知能発達全体に言葉を結びつければよいのか。ピアジュは、厳密な意味における言説の分析レベルには手を付けずに、言葉という用語を極めて包括的に用いている。

 

ピアジュにとり、ことばは、論理的思考に入るための必須の条件ではないのである。