最期まで納得のいく人生を送るために

 心理士は、積極的ながん治療を中止する場面でも介入することが多い。栗原さんはこんな例も紹介してくれた。

 

 50代のB子さんは卵巣がんと診断された。かなり進行していたので、まず腫瘍を小さくすることを目的に化学療法を受けた。効果があれば手術で病巣を切除することも考えられたが、6ヵ月後のCT検査でぽかんが大きくなり、腹膜と肝臓への転移も起こしていた。その結果を見た主治医は言った。

 

「次回から、緩和医療科の受診予約もしましょうか」

 

 B子さんは、「緩和医療」と聞弌覚悟していたとはいえ自分の人生に限りがあると告げられたことを感じた。心がざわざわと波打ち、頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。栗原さんの前に座ったとき、B子さんは小さな声で話し始めた。

 

 「私はふだんから、新聞の切り抜き記事をスクラップにするなど、命に関する話題には生面から向き合ってきたつもりでした。でも、いざ自分の病状が快方に向かっていないと聞くことは、こんなにも気持ちが銷揺するものなのですね。思っていたより薄っぺらい覚悟だったなと気づいたら、これまでの生き方にも自信がなくなりました……」

 

 カウンセリングで人生を振り返りながらいろいろな話をするなかで、栗原さんは二番犬切に思っている娘さんにメッセージを書いてみませんか」と勧めた。そこで、B子さんは大学ノートを買ってきて、思いついたまま書き留めた。たとえば、毋として娘さんをどう思っているか、女性として生きていくうえでこういうことを大事にしてほしい、友人や恋人に対してはこんなところを見てほしい……。さらに、自分の葬式の希望や写真についても書いた。べしシが進むにつれて、心の波風はおだやかになった。ある日、B子さんは栗原さんと夫にこう聞いた。

「私、自分の人生と向き合ってきたと思う?」

「かなり、向き合ってきたと思いますよ」

 栗原さんが答えると、夫もそれに続いた。

 

「すごく、向き合ってきたと思うよ。これまで生きてきた足跡や死に対してどう向き合おうとしたか、僕ら家族に対する思いなど、ノートにしっかり表れている」

 

 「そう、よかったわ」

 

 B子さんは安心したようにつぶやいた。数時間後、急に呼吸状態が低下した。主治医は容態の変化を聞き、病室へ急いだ。その腕には三線(沖縄奄美の弦楽器)が抱えられていた。実はB子さんが元気なころ、主治医はこんな頼みごとをされていた。

 

 「先生、ご趣味の三線で、今度、私のために一曲弾いてくれませんか」

 

 処置後、B子さんの枕元で、主治医の弾く『童神』の曲が静かに流れると、家族や親族から歌声が聞こえた。1番が終わったときB子さんは亡くなっていたが、主治医はそのままお別れの意味を込めて2番まで弾き続けた。曲を終え三線を置くと、主治医はペンライトで瞳孔を見て脈を確認し、静かに頭を下げて部屋を出た。

 

 がん医療では「緩和医療」という言葉に二つの意味がある。①がんは進行するにつれて、痛み、呼吸のつらさ、体のだるさなど、いろいろな症状が出てくる。こうした症状を緩和させ、体と心をラクにしながら日常生活を送ることができるよう、早い時期から外科、内科などの専門診療科と緩和医療科を受診する、いわば『併診』の形をとることがある。②積極的な抗がん剤治療を続けたら、かえって体に対する負担が大きくなると医師が判断した場合、がんと闘う医療から体を大事にするための医療へ移行する。B子さんの場合は②ごった。

『がん闘病とコメディカル』福原麻希著より 定価780円