看護師が点滴のボトルを交換するために病室に入ると、A子さんはうわごとのように、「ああ、食べたい。何でもいいから食べたい」と繰り返しつぶやいた。そこで、林さんはA子さんの望みをかなえるため「しがみ食」を出すことにした。「しがむ」というのは、関西地方で使われる言葉で、「囗の中で食べ物をクチャクチヤ噛む」という意味がある。しがみ食では、お皿にのった米飯、肉、エビフライ、生野菜などを囗の中に入れて噛み砕き、うまみを味わったあとは飲み込まず袋の中に吐き出す。

 

 A子さんはベッドのかたわらじいた林さんに、ため息混じりにつぶやいた。

 

 「私ったら、まるで餓鬼道に落ちたみたい。ああいやね、こんな姿。とてもほかの人には見すられないわ」

 

 それでもA子さんは、入院中、何度も何度もしかみ食をリクエストした。

 

 しがみ食は栄養をとるための食事ではない。栄養は点滴で入れる。これは患者炉心に抱く願望をかなえるための食事だ。林さんは説明する。

 

 食べ物を噛んで味わうことで満足感を得るだけでなく、目の前に食事がくる楽しみも持てる。咀嚼することから脳に刺激も与えられる。つまり、患者さんの免疫力やQOLを上げることができます」

 

 淀川キリスト教病院が、1984年にホスピスを開設したとき、その旗手的役割を務めた当時の柏木哲古副院長(現名誉ホスピス長)は、病院の管理栄養士にいつもこう言っていた。

 

 「ホスピス病棟の患者さんであって气最期まで味わえる食事を出してください。ひとりひとりが食べられる物をつくっていただきたい」

 

 林さんはこの言葉をいまでも胸に抱える。

 

 がんの末期だからといって、三分粥や流動食と決まっているわけではない。がんができた臓器によっては、最期までふつうに食べられる人もいる。林さんはホスピス病棟の患者と接するうちに、「食べたいものを味わうことが″心の栄養”になる」と気づき、86年から、毎月第3金曜日の夕食を「イベントメニュー」の日にした。ホスピス病棟入院患者がそれぞれ、そのとき心に抱く「ぜひ、食べてみたい」というメニューを聞き取り実現させる。あるイベントメニューの日に病院訪問した。

 

患者さんが料理を目にした瞬間、顔をほころばせる姿を見ると、私たちもうれしいですね。プロとしての誇りを持って、料理をつくっています」

 

 患者一人ひとりがパラパラな注文を出しても、調理師はやりがいを持ってイベント食に臨む。院内の看護師もイベントメニューをサポートする。たとえば、ある末期卵巣がんの患者は大腸に孔か開いて膣とつながってしまい、固形物を食べると肛門と膣の両方から便が出るようになり、皮膚のただれのケアが必要になった。が、看護師は「ケアの回数が多くなっても、患者さんが食べたいものを食べてほしい。食欲があるほうがいい」と全面協力した。

 

 「末期肺がんの患者さんは、イペントメニューでにぎり寿司と茶碗蒸し、それにコップー杯だけですが、ビールを飲んでいました。幸せなことですよね。患者さんは食欲が出てくると、寝たきりだった人でも『ちょっと散歩してみたい』とおっしやったり、表情が生き生きと明るくなったりする。気持ちが前向きになるんです。つまり、食べられることで自分は生きられる、と確認できるわけです」

 

 多くのスタッフの尽力のもと、イベントメニューは20年以上続いている。どんなに忙しくても、阪神淡路人震災直後にI回休んだだけという。