自殺を考える

 

 うつ病で最も重大な症状は、言うまでもなく自殺である。うつ病の人の自殺率は普通の人の数十倍である。うつ病の人の自殺は治療すれば必ず防げると言われる。しかし残念ながら必ずとは言えない。治療すれば自殺の確率を著しく下げることはできる。それでもゼロにすることはできないのは、一般的に言う「どんなことにも絶対はない」ということだけが理由ではない。いつ自殺するかわからないというのが大きな理由である。うつ病が最も重い時期に自殺が多いのであれば、まだ何か対策はあるかもしれない。しかし、最初のメールの人のように、まだ話が始まる前に自殺されてしまうこともある。また、回復期にも自殺は多いと言われる。この理由は、重い時期には何もする意欲がない、自殺する意欲さえない、それが回復につれてかえって自殺するエネルギーが出てしまうから、と説明されることも多いが、本当のところはわからない。重い時期には自殺しないかというと、そんなことはない。回復期に多いのは、もしかすると重い時期にはみんなが注意しているから防止できているが、回復期には注意がそれるからかもしれない。

 

 ところで、自殺はやはり夜に多い。うつ病の不眠に対して睡眠薬が処方されるのは、何気なく行われているようだが、自殺を防止するためという意味も含まれている。特に抗うつ薬の効果が出てくるまでの期間は、睡眠薬は必須とも言える。自殺を百ハーセント防止する方法は現実にはあろうはずもないが、治療によって確率は激減されているのである。

 

 さて、これらがうつ病の症状である。どの症状も、誰もが一時的には心あたりのあることかもしれない。それとどこが違うかと言えば、ひとつは持続期間である。二週間以上続かなければ、うつ病という診断はまだつけにくい。しかし持続期間は形式的・便宜的なもので、そんなことより本当は普通の落ち込みとは質が違うのである。脳の病気だから、脳の中に原因がある。シナプス神経伝達物質の変調に原因があるのである。

 

 その結果、何か普通の人にはあり得ないような特別な症状が出れば、誰もが病気と理解できるが、うつ病の症状は、ある程度までは誰でも心あたりがある類のものである。だから理解できるような気がする。自分の経験をもとにアドバイスできるような気がする。それが誤解につながっている。正常心理からの類推は間違いのもとなのである。

 

 うつ病の症状の成り立ちは、まだわかっていない点も多い。いま私はあえて脳の病気の症状であることを強調して話した。多くの本や解説では、わかりやすくするため、共感しやすくするために、正常の心理との共通点が強調されていることがはとんどである。それがまた擬態うつ病を増殖させるもとにもなっている。理解することは大切だが、理解できないところがあることを知ることもまた大切である。

 

 ところで、これまで述べたような症状がいつも出てくるのなら、診断はそう雌しくないが、病気の始まりの時期にはこのうち一部しか出てこないし、また人によってすべての症状が出るとは限らない。だから、たとえば部分的には意欲がある、といううつ病もあり得るのである。そうなると一体何を診断の決め手にしているのかということにもなりそうである。実際には精神科医は、症状のチェックもさることながら、その人の全体を見て、いわば直観も使って判断しているのである。いや、むしろ直観の方を重視していると言った方が本当かもしれない。

 

 およそ人間と接する什事をしている人は、色々理屈を言っても最終的な判断の決め手は直観であると考えているのではないだろうか。いや、人間だけでなく、物を扱う仕事でも、直観の方が最後は重視されるのはよくあることである。何であれ人間が物事を判断する時には、項目の子エックだけでは、表面的な評価しかできない。うつ病の診断もそれと同じである。人間全体を見て判断することで、はじめて正確な診断ができるのである。

擬態うつ病林公一著より