自称うつ病と自己愛

 

 症状があって病院を受診し、心配ないと診断された場合、患者の反応は大きく二種類に分けることができる。ああよかったと思うか、そんなはずはないと思うか、の二種類である。さっきのメールの人は後者である。精神科ではこういう人が増えているように思う。それはひとつは情報過多の影響である。受診前にいろいろ手を尽くして自分で調べる。インターネットをはじめとする情報の洪水は、情報を消化する能力を超えている。情報を収集したつもりが、かえって誤解を強めることもよくあることである。しかし精神科の病気の場合はそれだけの問題ではない。自覚症状を中心として診断するものだから、自己診断に自信を持ってしまうこともありがちなのである。しかし、そうならない人もいるのだから、単に情報過多というだけでなく、本人の中にも何か要因があるはずである。

 

 そういう観点で見ると、背から似た心理の人はいたことに思い当たる。それは、精神科とかうつ病とかに限らず、自分が病気であることを確信してしまう心理のことである。心気症とか疾病恐怖という診断名もある。心気症というのは、自分の健康状態を過剰に心配することである。たとえば、ちょっと胸が痛いと、心筋梗塞ではないかと心配する。ちょっとお腹が痛いと、癌ではないかと心配する。そこまでなら普通の人にもあることだが、心気症の人は、その度に医療機関を受診し、病気でないと診断されても納得しなかったり、いったんは納得してもまたどこか別のちょっとした不調を気にして何回も受診することになるのである。また、疾病恐怖というのは、特定の病気、たとえば痛とかAIDSとかが対象になる。何回検査しても安心できず、さらに詳しい検査や、同じ検査の繰り返しを要求する。疾病恐怖の人にとっては、皮膚のちょっとした発疹などが、いつも重大な病気の根拠になるのである。ほとんど妄想的とも言える状態になることもある。心気症も疾病恐怖も、治療はなかなか厄介なものである。

 

 心気症と疾病恐怖の心理の共通点のひとつは、非現実的な健康状態を求めているということである。誰だって常に完璧なコンディションでいることはない。多少の不調はあっても、気にせず、そのうち忘れてしまう、そうやって大部分の人は普通に生活しているのである。そういうことができず、ちょっとした不調でも気にし続けるというのは、非現実的であり病的でもある。

 

 本当はうつ病でないのに、自分がうつ病だと信じている人にも、よく似た心理が見られる。気分の落ち込みは誰にでもある。つらいことは誰にでもある。それを理屈としてはわかっていても、自分のつらさは特別だと信じる。もっと明るい気分になれるはずだ、なれないのは白分がうつ病だからだと納得してしまう。そういう人が医者から「そんなことは誰にでもある」と言われたら、憤慨することになる。さっきのメールの人がそうである。

 

 こういう人にとっては、「そんなことは誰にでもある」と言われることは、いわば人格の否定に等しい。病気なら、いたわってもらえる。病気でなければ、本人の努力を要求される。正反対である。納得できるはずもない。擬態うつ病という名がいちばんあてはまるのは、この類の自称うつ病かもしれない。

 

 性格学的には、うつ病を白称する人は、白己愛人間の中の渇望型と呼ばれるタイプであると言える。『自己愛人間』とは、一九八〇年代に小此木啓吾が出版した本のタイトルだが、自己愛という言葉そのものはもっと昔からある精神分析の用語である。決して悪いとか異常とかいう意味ではない。自己を愛する、白分をかけがえのない大切なものだと思うことは、健全な成長のためにどうしても必要な心理である。他人を大切にすることの起源も、もとをたどれば自己愛である。自分の能力を信じて目標に向けて努力するのも、自己愛なしでは不可能である。

 

 ただしそれが強すぎると、自己愛人問と言われる偏った性格ということになる。偏った性格が必ずしも悪いというのではなく、人並み外れた自己愛の強さをエネルギー源にして自己実現を続けていく人もいる。他人とは違った大成功をするための条件は、ある程度までは自己陶酔的なまでもの自己愛を持っていることでもある。昇りつめた人が自己陶酔的に見えることはよくあるが、それは昇りつめた結果としてなったのではなく、自己愛が元々強く、自分の才能を信じ、時には自分に陶酔することもあって、はじめて才能が花間いたのである。ただしそのためには元々の才能が必要である。才能がないのに自己愛が強いと、これは間題である。自己愛人間は、自分の理想像が高いために、それが満たされないと落ち込みやすい。現実を受け入れられないのである。

 

 一九八〇年代には、現実を受け入れないままに生きていることが容認されていた。容認どころか、むしろ好ましい姿とされていたとも言える。組織に属さず、または属していても組織の一員としての意識は希薄で、白分流を通すことがすがすがしいとされた。そこにパブルの好量気も重なって、白己像を素晴らしいと錯覚し、その錯覚が現実にかなり近いものにも

なるという状況でもあった。それが続けば、それですんだかもしれない。

 

 ところがパブルがはじけ、同時にたくさんの夢もはじけてしまった。自分の描く理想像は、現実とはほど遠いものであることを思い知らされることが多くなってしまった。自己愛人間は当然、穏やかな気持ちではいられない。日本での自己愛人間の増加自体はおそら・・・

擬態うつ病林公一著より