うつ病の情報は好まれる

 

 医療について、好まれる情報というのは、治るという情報である。ただ治るというだけではない。見過ごすと大変だが、気づきさえすれば治すことができるという情報がいちばん好まれる。確かにこれは情報としての価値がある。頭痛、腹痛などのありふれた症状の中に、早く治療しないと大変なことになる病気の可能性が含まれている。そういうことを知っていると知らないとでは、命が助かるか助からないかの違いにつながる。たとえば、急性クモ膜下出血は、緊急に子術をしなければ命に関わる頭痛のひとつである。そういう頭痛とそうでない頭痛の見分け方は、きわめで有益な情報である。有益なら当然好まれる。治療すれば治るという情報が、最も好まれる医療情報である。

 

 だから、医療情報のメインテーマはいつも、「・・は治る」である。本のタイトルにもこれがいちばん多い。中には詐欺もある。治りもしないのに、治るといって妙な薬を売りっけるのは、昔々からの詐欺師の常套手役である。なんでも治る妙薬。いつになってもそれに騙される人があとを絶たないのは、ワラにもすがりたくなる人の心理を反映している。いつの世にも、治らない病というものはある。不幸にして治らない病に侵されてしまった人は、治ると言ってくれる人を信じる。かなりひどい詐欺的な治療でも騙されてしまう。ワラにもすがる人の心理が悪用されるのである。おそらく詐欺師から見たら、これほど騙しやすい人はいないのであろう。

 

 それと似ているもうひとつの正常心理は、「自分の病気は治る」というものである。治る病気と治らない病気があることは認める。なんでも治る妙薬はインチキに決まっていると思う。ただし、自分の病気は治る病気であると信じる心理である。これは、完全に健全な心理である。

 

 この逆が、自分の病気は絶対に治らない、自分は不治の病にかかってしまったという心理で、さっき言った心気症や疾病恐怖がそれにあたる。世の中には不治の病というものが・あり、自分が絶対にそうでないということは誰にも言えないはずだが、それでも不治の病を否認することによって人は心の平静を保っているのである。大地震が起きても自分は助かる。核戦争は自分が生きている間は起こらない。そういう根拠のない確信と同列である。癌の権威の医師が癌にかかった時、弟子たちが癌であることを否定する。権威の知識から考えれば、癌であることは火を見るよりも明らかなようでも、弟子たちの言うことを鵜呑みにしている。そういう例はよくあることである。人間は、自分の存在が崩壊することは否認することによって安心しているのが健全なのである。

 

 そこで、うつ病は治るという情報である。うつ病の治療法は確立している。治るというのは本当である。ただの落ち込みだと思っているあなた、うつ病かもしれません。うつ病だったら、早く治療した方がいい。うつ病は、治ります。これがうつ病に関する情報の最大公約数であり、一片の偽りもない事実である。

 

 ここに、精神科のイメージの変化が重なってくる。かつては敷居の高かった精神科が、誰でも受診できる、気軽に受診できる、というイメージに急速に変わってきている。気軽に受診できるメンタルクリニックがどんどんできている。事実、外来診療だけを行う精神科のクリニックの数は、ここ数年で急増している。名実ともに、精神科の敷居は低くなっているのである。

 

 こころの病にかかっている人は、潜在的には大変な数に上ることがわかっている。それを考えれば、精神科の敷居が低くなったことは歓迎すべき変化ではある。しかし、どんな場合でも物事が一方向に向かい出した時は、いきすぎになりがちである。特にそれまでイメーが悪かったものがよいイメージに転換すると、何かすごく頼りになるように見えることが多い。構神科の敷居が低くなったのはいいが、精神科への過剰な期待が生まれると、反動としての失望も大きくなる。精神科はこころを扱うといっても、医学の一分野にすぎない。医学として扱える範囲でのこころを扱っているにすぎない。こころというものは、そんな範囲に収まりきれるものではないだろう。けれども少なくとも今の精神科では、医学の範囲以上のことはなかなかできないのである。うつ病は確かに治せるが、病的でないうつの気分はそうそう治すことはできない。

 

 うつ病そのものについては、かなり正確な情報が広まっている。しかし、広まっているのはうつ病への対応ということが主で、何が本当のうつ病かということについての正しい知識が浸透しているとは言えない。むしろ、治るということが強調されすぎて、本来はその情報が向けられるべきでない人がそれをキャッチして、混乱が生まれている。その必要がないのに、うつ病ではないかと心配する人が増えてしまったというマイナス面が出てきている。

 

 本でも雑誌でも、医療情報の最後は、マ心配な方は、念のため医師に相談してください」という決まり文句で結ばれている。決まり文句ということは、言葉としては無意味ということである。けれども読む人は、そもそも心配だから読むわけだから、ご心配な方は……」と言われたら、ますます心配になってしまう。

 

 治るという情報が好まれることの根底には、やはり溺れる者はワラにもすがるという心理がある。それは全く健全な心理だが、うつ病に関する情報過多の現代では、溺れていないのに溺れていると錯覚している人が増えてしまっているのである。

擬態うつ病林公一著より