ホスピス領域のパイオニアとして試行錯誤

 新倉さんは、小さい頃から歌とピアノが得意だった。音楽を愛し、その素晴らしさを後進に伝えることに人生を賭けていた指導者と出会い、新倉さんも「音楽を通して、生きる喜びをわかちあいたい。社会に役立てることはできないか」と思い続けてきた。が、半年後、「人生を音楽療法で引き受けるわけだから、現状を深く知る必要がある。ボランティアのような生半可ではダメだ」と気づき、施設の職員になり高齢者と接する時間を多く持ちたいと考えた。そこで当時、資格なしで患者と接することができる看護助手として救世軍清瀬病院に入る。37歳の新倉さんが配置されたのは設立されたばかりの緩和ケア病棟だった。

 

 看護助手の経験は3年間積んだ。その期間、本人が働く病棟で父親の最期も見送った。同時に音楽療法について学びたいと思い、病院の勤務が終わると夜間の大学の講義に通ったり、東京音楽療法協会が実施するセミナーで勉強したりする日々が続いた。自分が担当したセッションをスーパーバイザーに見てもらって、終了後に「あのとき、どうして患者さんにこう言ったのですか」などと、分析と厳しい指導を受けたこともあった。臨床カウンセリングの講座も受けた。

 

 病院に勤務して2年目、新倉さんの提案に共感した当時の看護総婦長がホスピス音楽療法を導入するように働きかけた。当時、すでに音楽療法は高齢者領域、精神科領域、養護学校での授業や生活指導で導入されていたが、ホスピス領域では初めてだった。病院は試験的に導入しただけだったが、しばらくして患者に効果が現れ始めた。

 

 「末期がんの患者の表情がとても明るくおだやかになった。どんなケアをしたのか、カルテに書いてほしい」

 と医師から指示が入ったのだ。手ごたえはあったがなにしろ、どこにも先駆者がいないためすべて手探りで進めなければならず、試行錯誤の連続だった。音楽療法が病院で本当に認められたと感じたのは「8、9年目だったかな」と思い出す。

 

 救世軍清瀬病院緩和ケア病棟の平均在院日数は30日程度。音楽を一緒に楽しんだ患者を見送ることも多い。「来週も来るからね」と病室を後にしたが、翌週、そのベッドにだれもいなかったことも、たびたびあった。心にポッカリと穴が開いた気持ちになるが、隣の病室では新倉さんの訪問を待っている患者がいる。「だから、つらいとか寂しいとか言っていたら仕事にならないんです」と新倉さんは言う。

 

 「でも、本当は人が亡くなるという現実には慣れることができません。せめて出棺を見送れれば納得できますが、それもできなかった場合、自分の中でその人との関係が突然、断ち切られたようになってしまうのです。仕事をしているときはそんな気持ちを閉じ込めていますが、たとえば、遺族の方から偲ぶ会の招待状が送られてきたり、講演原稿をまとめているときにその人の例を書こうとして号泣してしまったりすることはよくあります。でも、これまで出会った人の話をするときが一番、自分をなぐさめることにもつながるんですよ」

 

 新倉さんが長年の問に身につけてきた悲しみの昇華方法だろう。ミュしシックタイムでは同じ曲を何度もいろいろな人のために演奏するが、そのたびに、これまで曲を通しオートハープを弾きながら歌う新倉さんO患者はそのときに一一番聴きたい曲をリクエストし、気持ちのままに聴き入れて触れ合った人々が自分の周りで温かく笑いながら見守ってくれていると感じる。

 

 「自分の存在が消えてしまう死については、こわくなくなりました。みんなが待っていてくれて、私の席は取っておいてくれていると思うから。父にも会いたいですね」

 

 と話す。この仕事に向いている人とは。

 

 「人間的に幅と深みのある人、つまり、自分の経験を咀嚼して血肉にしていく能力を持っている人ですね。音楽療法とは、それほど厳しいものだと