快の感情

 

 

 正常な反応だろうが病気だろうが、気分の落ち込みはつらいものである。人間は、つらい状態からつらくない快適な状態への変化を常に求める。不快な状態から快の状態へ。人間の行動の基本にある原則である。フロイトはこれを快感原則と呼んだ。不安や恐怖といった感情は不快なもので、人間に次にとるべき行動を教えている。不安や恐怖に限らず。不快な感情にはそういう意味がある。

 

 ところで、これまで不快な感情のことばかり言ってきたが、快の感情にも進化的意義があるはずである。快の感情とは、たとえば喜びや幸福感である。ひとつには、喜びや幸福感も、やはりとるべき行動を自分に教えているという意味がある。

 

 心理学に正の強化という言葉がある。何かをして、好ましい状況が得られた場合、気をよくしてまた同じことをする傾向が出てくるということである。たとえばギャンブルで儲かるのは正の強化である。儲かるという好ましい状況が得られたという経験により、人はまたギャンブルに走るのである。ここでの「気をよくして」というのが、快の感情にほかならない。また同じことをするべきだ、してもよい、ということを自分に教えるのが、快の感情のひとつの役割である。したがって、何かを自分に教えるという意味では、不快の感情と同じ性質を持っていると言える。ただ、教えている内容が正反対になっている。

 

 もうひとつ、快の感情には不快の感情とは全く違った意味がある。それは、快の感情自体が人間の行動の目標になるということである。喜びや楽しみや快感を求めて、人は行動するのである。それが、生物としての人間のあらゆる営みの基礎にある。物を食べる。金を稼ぐ。異性を求める。疲れを取るため眠る。すべて、快適な感情の状態になることを求めている。フロイトの快感原則というのは、このあたりのことを言っている。病気を治すというのも、これと同じ系列にある。しかもここには経済原則も働く。最小の努力で、最大の快を求めたいわけである。

 

 気分の落ち込みというのも、人間個人としては何としてでも解消したい不快な感情の状態である。それがなかなか解消しにくく、時間もかかるというのが、落ち込み本来の進化的意味であった。ひとり悩むことに意義があった。早く解消したいと切望しても、それができないところが落ち込みの意義なのであった。

 

 それが、うつ病という病気の情報が広まることによって、偽りの希望が出てくることになった。自分の落ち込みが病気であれば、正当化できる。医学的治療で救われる。それなら病気と思いたくなる。これは決して本人だけの責任ではない。

擬態うつ病林公一著より